本人の同意があってもやってはいけない誘導
催眠術や心理的誘導の世界では、「本人の同意があるかどうか」が安全性の基準として語られることが多くあります。確かに、同意は絶対条件です。しかし、現場に立ち続けていると、同意があるにもかかわらず、やってはいけない誘導が存在するという事実に必ず突き当たります。同意があることと、安全であることは、完全には一致しません。
まず前提として、人は「同意できてしまう状態」に入ることがあります。安心している。信頼している。期待している。助けてほしいと思っている。こうした状態では、本人の判断力は一時的に下がります。これは弱さではなく、人間として自然な反応です。催眠状態に近づくほど、この傾向は強くなります。つまり、同意そのものが、すでに誘導の影響下で生まれている可能性があるのです。
たとえば、「深いところまで行っても大丈夫ですか」と聞かれて、「はい」と答える人がいます。その返事は嘘ではありません。ただし、その「はい」は、状況に流された結果かもしれない。断ると期待を裏切る気がする。断る理由が見当たらない。断ると場の空気が壊れる。こうした要素が重なると、人は簡単に同意します。ここで誘導を進めることは、形式上は問題がなくても、倫理的には非常に危うい行為になります。
本人の同意があってもやってはいけない誘導の典型は、「本人の判断能力を一時的に借りて、長期的な影響を与える誘導」です。トラウマに触れる。過去の強い感情を一気に掘り起こす。人生観や人間関係に関わる価値判断を、その場で書き換えようとする。これらは、たとえ本人が了承していても、慎重すぎるほど慎重であるべき領域です。
また、「本人が望んでいるから」という理由で行われる誘導も、危険になることがあります。変わりたい。忘れたい。楽になりたい。こうした願いが強いとき、人は自分にとって不利な誘導にも同意してしまいます。ここで必要なのは、欲求をそのまま叶えることではなく、その欲求が生まれている背景を尊重することです。欲しがっているから与える、という構造は、催眠においては必ずしも安全ではありません。
本当に守るべきなのは、同意という言葉ではなく、回復可能性です。その誘導を受けたあと、本人が自分の判断を取り戻せるか。違和感が残らないか。後から「やらなければよかった」と思わないか。これらを想像できない誘導は、たとえ同意があっても行うべきではありません。
催眠術師や誘導を行う側の役割は、「同意を取ること」ではありません。「同意が成立しない状況を作らないこと」です。その線を越えないことこそが、プロとしての最低条件です。
善意の誘導が一番危険になる瞬間
催眠や心理的誘導において、最も危険なのは悪意ではありません。むしろ、善意が最高潮に達した瞬間です。相手を助けたい。楽にしてあげたい。良くなってほしい。その気持ちが強くなりすぎたとき、誘導は静かに暴走し始めます。
善意が危険になる理由は単純です。善意には「正しさ」が伴うからです。自分は良いことをしている。相手のためを思っている。この確信があると、ブレーキが外れます。相手の小さな違和感を見落とす。反応の鈍さを無視する。沈黙を不安として埋めてしまう。結果として、相手の無意識に圧をかけます。
特に危険なのは、「この人にはこれが必要だ」と術者側が確信した瞬間です。本人よりも自分の方が分かっている。今ここで変えてあげないといけない。そう思ったとき、誘導は支援から操作に変わります。表面上は優しい言葉でも、その裏には方向付けがあります。無意識はこれを敏感に感じ取り、防御を始めます。
善意の誘導が一番危険になるのは、相手が弱っているときです。疲れている。迷っている。自信を失っている。こうした状態では、人は誘導に対して抵抗しません。むしろ、委ねます。だからこそ、強い影響が入りやすい。このタイミングでの善意は、相手の主体性を奪いやすくなります。
また、「成功させてあげたい」という善意も危険です。相手に良い体験をしてほしい。変化を感じてほしい。その思いが強いほど、術者は結果を急ぎます。深さを求める。反応を引き出そうとする。これは一見すると親切ですが、相手にとっては負担になります。うまく反応できなかったとき、「自分が悪い」という感覚を残すことすらあります。
本当に安全な誘導は、善意が控えめです。助けようとしすぎない。変えようとしない。成果を欲しがらない。ただ、相手が自分のペースを取り戻す邪魔をしない。この姿勢があるとき、誘導は自然な形で作用します。
善意は必要です。しかし、善意を自覚しているうちはまだ安全です。危険なのは、善意が無自覚になったときです。「これは良いことだから」という思い込みが生まれた瞬間、点検が止まります。そのとき誘導は、最も危険な形になります。
誘導において守るべきなのは、相手の変化ではありません。相手の戻れる場所です。善意がそれを見失った瞬間、どんなに優しい言葉も、危険な誘導に変わります。